Everything is concealed from your eyes


今思い返せば。
その時に限って言えば、空が青くは見えなかった。
何故か赤いように思い、そして夕刻だと思った。夕焼けの真っ赤な空を見ているのではないかと思って、しばらくぼんやりとしていたのだった。
目の手術をしてから、どうにも具合が悪いのは、おそらく、悪いのはそこではなかったのだろうなとか、自分がどんな顔をしてそこにいるのかとか、その時士季に話し掛けられるまでは、自分が苦しいのかさえ、気付いていなかったかもしれない。



秋も深まった頃、司馬師が変えた皇帝との謁見を終えた鍾会が、待ち伏せしていた司馬昭に捕まったのは偶然ではない。それはお互いよく知っている。
だから鍾会は、聞かれる前に答えた。
「新しい皇帝は若いけれど、頭が抜群にいいと思う」
鍾会は何気なく司馬昭に言った。
「頭がいいか?」
「話していても楽しいです、あれで15歳とは驚きですね。流石お血筋というか」
「ふん、で?」
「私が誉めているのですよ?子上様」
鍾会は薄い唇に得意げな笑みを滲ませた。
人を滅多に誉めない鍾会が本心で誉める事の意味がわからないつきあいでもない。
「・・・そうか」
司馬昭はそれだけ言うと、では先に行くよと早足で行ってしまった。
残された鍾会は周囲を軽く見回していたが、ふと、持っていた竹簡が一つ足りないのに気がついた。
忘れたのか、或いは落としたのか・・・そう思い、きびすを返して元来た道を戻りだした。
そして、佇む司馬師を見つけたのは偶然ではあった。


「子元様、大丈夫ですか?」
鍾会が、壁に手をついている司馬師に声をかけた。
たいして長くも無い、そして景色が良いわけでも無い渡り廊下でぼんやりと遠くを眺めているように鍾会には見え、なぜだかぞくりとした。まるでこの世ではないどこかを見ているように見えて。
手術をしたばかりで眼帯をしている目が痛々しい上に、どこかを眺めている。
「・・・士季か・・・」
低く返答される。抑揚の無い冷たい声と、明らかに何かをごまかそうとした愛想笑い。
このような状態の司馬師が、普通なわけはない。
「凄い顔色ですよ。・・・そこの部屋で休みましょう」
鍾会は腕を貸しながらその部屋の扉を開け、中に誰もいないことを確認してから入り込む。
牀に司馬師を寝かせて部屋を暖めた。
普段は口ばかりで手を出すことなど殆ど無い鍾会の珍しい献身にすら気付かず、牀に腰掛けたまま頭を抱える司馬師。
「医師を呼びますか?」
「いらぬ」
「だって、目の手術をしたばかりではないですか!そんな青ざめた顔でいらぬと言われても・・・」
「いらぬものはいらぬ!」
「では、家に使いを・・・」
「待て。・・・それはやめろ。騒ぎが大きくなる」
腕を掴んで言う司馬師に、鍾会は驚いた。
「・・・解りました。・・・では子上様に・・・」
「絶対に言うな! あいつには!!」
腕をぎりぎりと掴まれ、鍾会はぎょっとした。司馬師にこんな乱暴に腕を掴まれたことなどない。日常の姿から、このような姿も態度も想像できず、ただ困ったように司馬師を見つめる。
司馬師の声は低かった。そしてその響きには鍾会が一番聞きたくないものが滲んでいた。
鍾会は小声で「痛い・・・」と呟くと、腕の力こそ緩んだものの、司馬師は腕を離してはくれない。
ふう、とため息をついて鍾会は言った。
「・・・解りました・・・でもどうすれば・・・」
「大丈夫だ、もう行く」
「ダメです。・・・顔色だって凄いですよ。周囲が気がつきます。騒ぎにしたくないと仰るなら、どこかで静かに休みませんと」
「それではどちらにしろ、体調が悪いことを気付かれる」
「・・・風邪気味だ、とでもしておけばよろしいんです」
鍾会はきっぱりそう言った。
「とにかく、どなたか・・・静かにしばらく匿ってくれそうな人は、いらっしゃいませんか?」
「・・・一人だけ」
司馬師は筆を取るように鍾会に言い、受け取ると何かをさらさらと書く。
そして。
「これを、この場所に。追ってそこへ行く」
そう言うと、頭をかかえて伏せてしまった。
鍾会は言われたとおり使いを出し、移動の準備をはじめる。
それを見ていた者がいるとも、全く気付かずに。


そこは郊外の、静かな道観だった。
「お久しぶりですね」
出てきた女性は、鍾会より多少年若いであろう女性で。
「どうぞこちらへ、そちらの方もどうぞ」
「すまない」
「・・・いえ。私にはこの程度の親孝行しかできませんので、どうか、お礼などおっしゃらないで下さい」
鍾会は目を見開いた。
親孝行?・・・ってことは?
「一番下の娘だ。諸事情あって嫁には出せなかったもので、死んだことにした・・・解ってるな?」
他言無用だぞ、と念を押され、鍾会は頷いた。
何を好きこのんでそんなことをばらすものか。
何よりその女は鍾会にとって、決して好きにはなれそうなタイプだった・・・表情の変わらない、能面のような美しい顔は、司馬師の若い頃によく似ていて恐かったのだ。
部屋の中でなにやら薬湯を差し出され、司馬師はそのまま飲む。
鍾会はそれにも驚いた。
医師が出した薬も必ず毒味させる司馬師が、すんなり飲んだのだ。娘だから、信用できるのか。
だが、見越したように言った。
「娘だから、ではないぞ・・・・にしても、まずいな、これは」
「仕方ありません。薬ですから」
「・・・そうだな。眠れるか?」
「数時間は。・・・長くは、無理ですわ・・・・」
親子と言うには、何か見えない壁がある2人の会話。それは仕方がない。
この娘の母親は、司馬懿と司馬師が殺したようなものであるとは洛陽中の誰もが知っている。いくら黙っていても本人の耳には入ってるであろうし、何よりこの娘の伯父が処刑になったのはそう遠い昔ではない。
本来なら、連座の対象なのだ。
・・・だから、なのか?
薬を飲み終え、横になる司馬師をしばらく見ていた。
「子元様、痛みますか?」
「いや・・・先ほどの薬湯は痛みを緩和させるものだ、大丈夫だ」
「・・・いつ頃からそんなものを?」
「いつだって良いだろう?」
気付くと娘の方はもうそこにはおらず、鍾会は横になっている司馬師一人とそこへ残されたようだった。
帰って良いのか、付き添っていた方が良いのか。
目の前の司馬師は何時の間に軽い寝息を立てている。
宮廷には、少々風邪気味でと伝えてある筈だ。司馬師の配下はその辺の手際は悪くはない、では自分はこのまま帰って、起きたら使いでももらおうか・・・などと考えていると、とびらがそっと開いて、声がかかった。
「付き添いの方・・・こちらへどうぞ」


招かれた隣室で、お茶をお菓子を出される。
鍾会が改めて挨拶もかねて名乗ると、彼女は驚いたような顔をした。
「・・・あなたが、あの・・・・」
「・・・あのって、何ですかね?」
「いえ、お噂はいろいろと、うふふふ・・・・」
意味深に笑う。
鍾会もつられて軽く笑った。自分をネタに司馬師が何を言ったのか、想像がつくようなつかないような。どうにも居心地が悪くなり、結局笑うしかなかったのだ。
「あの子元殿も、娘御には信頼をおいているようで・・・」
「あら。鍾士季様ともあろう御方がそんなこと・・・・もしかして、先ほどの薬の件かしら?」
彼女はにこにことした態度は崩さない。
だが一瞬、冷たい刃を向けられたように鍾会は感じる。
「違う、と?」
「ええ、私を信用しているから飲むのではないのですよ?」
「ではそれは何故?」
「私は、父を殺害する権利があるから」
ごく普通に、お菓子をつまみながらこの女性は、日常の会話のように言った。
その手の話に慣れ、その手の事は平気でする鍾会だったが、流石に女性からのその一言には驚き、とうとう笑顔も凍り付く。
「・・・それは・・・・」
「私の母と伯父を殺したのは父だから」
最悪だ、と鍾会は思った。
司馬師と司馬昭に関わって、この兄弟間の感情の交錯に立ち入るのは危険だと何度も思った。
だが、それは認識が甘かった。
この一族全員に関わるのは危険だったのだ。たとえ、若い女性であろうとも。
「父親を殺すとか・・・そういうことを、簡単に口に出すものではありませんよ」
「だからあえて口に出していなかったのに、あなたともあろう方がつまらない幻想を抱いているのが気味悪くて申し上げさせていただいたまでです。叔父上のお気に入りというから、もう少し察しが良いと思ったのに、少しがっかりですね」
「どういう意味ですか?」
この時代、親を殺すなどと言う発想自体してはいけない、冗談でも言ってはならない。
その中で、他人にさらっと言った。そして、鍾会を不愉快な気分にさせただけで、勝手に締めくくった。
「この話はこれでおしまい。大丈夫、私は誰にも言いません。だって、ここにはあの父しか来ない。あとは口がきけない召使いしかいないから。叔父上だって私は死んだと思っている筈ですしね」
その後、何か話をしたような記憶はあるが、鍾会はそれを思い出すことは出来なかった。
ただ、この時間が早く過ぎれば良いと、そればかり思っていた。


司馬師が目を開け、身体を起こすと鍾会が椅子にかけたまま眠りかけていた。
「・・・現実、か・・・・」
ふっ、とため息とも自嘲ともとれるような息を吐いた。
いつか、永遠に目を覚まさないですむ時は誰にでも来る。自分から積極的にそこへたどり着きたくはないが、どこかでそこをもとめてしまう自分もいた。
「子元様、具合は?」
「大丈夫だ。・・・明日にはもっと良くなっている」
「それは良かった」
鍾会はにこりと笑った。だが、おそらくぎこちなく笑ったと本人も気付いたようで。一瞬にして笑いが引っ込んだ。
「ふん、お前でもそうか」
「は?」
「娘が何か言っただろう?」
「・・・まあ、いろいろと」
口のうまい鍾会にしては、うまい誤魔化しも思いつかず、歯切れの悪い返答を続けるしか無かった。
「覚えておけ」
司馬師は鍾会を見ながら言った。
「結局、あれが結果だということを、な」
「・・・・・・・・・・・」
いつもであれば、「だから結婚なんてするもんじゃない」「子供なんてうんざりだ」という言葉が出てくるのに、その時の鍾会は何も言えずに、ただ頷いただけだった。
結果とは。
家族を殺し、家族に恨まれていることなのか。
それでもまだ助けようとしてくれるのが家族だというのか。
自分に、答えは出せない。


「また寄る」
「どうかもう少し、ご自愛くださいますよう・・・・」
そらぞらしい、似ている親子の会話に鍾会は無表情のままだった。
でもやはり、娘はどう見ても心配そうに父親を見ていたのだ。



続く


2へ続く


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